だから、私はこれを使う。
Macが、美しい。
決して裏切った訳ではない。
やはり、FreeBSDは柔軟なOSであるし、自由度も高い。
第一、使い慣れている。
しかし、一時期心が揺れた。
何も疑問を持たずにWindowsの世界しか知らなかった僕を、Unixの世界に放ってくれたのがFreeBSDであった。
しかし、本当にFreeBSDしか知らないままで良いのだろうか、という疑問が沸いてきた。
ふと周りを見ると、Macのユーザに取り囲まれている。
計算機室なんて、畑と呼ばれる位林檎だらけだ。
派手過ぎないエフェクト、自然な関連付けがされたUI、そしてBSDのユーザランド。
確かに、Macにも非の打ち所はない。
確かに、無い。
開発環境もそろっているし、Flash9も走る、フォトショも走る、イラレも走る。
完璧だ。
いや、完璧すぎるのだ。
自分自身の色に染められる場所がほとんど、ない。
それは何を意味するのか。
自分好みの自分の環境を作る、自分だけの世界を作る、自分だけの、オリジナルの。
それは、子供のころから誰しも持ちえた願望だ。
それが、Macにはする余地がない。
それをしてしまうと、自分の感性の無さに絶望してしまう。
いや、逆だ。Mac流に染められ、「本当にやりたい」事ではなく「Apple流に則った」世界にしてしまう。
Appleから、Macから、逃げられない。
そう、だから私はFreeBSDを使う。
自分の色に染められるほど、まだ染まっていないから。
そう、だから私はマイノリティになる。
自分の色を発揮できるから。
FreeBSD、これからも。