だから死刑に反対しない。

いや、出来ない、が正しいか。

まぁ、死刑については、被告に反省の色が見えないから社会に出したとき危ないとか、見せしめ効果があるとかまぁ色々言われておりますが。
個人的には、それはあまり関係無くて。
私が反対出来ないのは、「もし自分が被害者の立場となった時、犯人が生きる事を許せる」と言い切れないからです。

もし、自分がその立場になったら「社会的な影響?判例?そんなのはどうでもいい、とにかくあいつを裁かせてくれ!」となってしまうであろう事が想像できます。
一歩引いた傍観者の立場となった時とは、明らかに言う事が違うでしょう。

  • 命の重さ
  • 理性
  • 犯行の理由

こんな事を考えられるのは当事者じゃないからで、もしその立場になったら、とりあえずそいつをどうにかしてやる事しか頭にないと思います。

あちこちで本村氏が批判されているのを見かけるけれども、氏は非常に理性的に、かつ合法的に犯人に対する最大限の報復を成功させています(言い方は悪いですが)。
しかも、本来ならば失う筈も無かった9年もの歳月も掛けて。
私は自分がその立場に置かれた場合、その行動を取る自身は、ない。
だから、私は氏を批判する事も、死刑に反対する事はしないし、出来ない。

しかし、一方で今回のように第三者的立場として事件を眺めてみると、いろんな考えも浮かんできます。
例えばこのエントリを読むと「ああ確かに」と思う部分も多々あるし、ここのエントリを読んで、「犯人側にも、そのような思いがあるのかもしれないな」と思う部分もあります。
が、前述の通り、私の感情の部分ではこの判決を全肯定しています。

この、理性と感情の乖離。
普段のOS論争や言語論争とは違い、理性部分と感情部分での食い違いが発生してしまうこの様な案件については、私は思考を停止させてしまいます。

皆さんは、どのように折り合いを付けているのでしょうか。